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房総半島南部の安房・上総ばかりではなく、相模や江戸など広い範囲の寺社に優れた彫刻を遺した、稀代の彫工・武志伊八(武志伊八郎信由)は、江戸時代半ば、宝暦2年(1752)に、安房国長狭郡下打墨村(現在の鴨川市西条地区打墨)で生まれた。
彼は寺社の建築を飾るために、実に様々なものを彫っているが、現代人の目から見ると、特に波の表現が優れているとの高い評価を受けていることから、現在では「波の伊八」と呼ばれている。
伊八の名前は、初代から五代およそ200年にわたって、昭和29年まで受け継がれた。何故、これだけの優れた仕事を遺した工人が、この地に誕生したのであろうか?
初代伊八が生まれ育った時期は、この地域でも、寺社の建築を彫刻で飾ろうとという気運が高まった時代に当たる。そうした時代背景の中、伊八は長狭郡では最初の彫物大工(建築彫刻専門の職工)としての人生を歩むことになる。
伊八は上総植野村の嶋村貞亮(市東半平)の弟子として腕を磨いたようである。それ故、伊八は江戸ではなく、上総の植野周辺で修行を積んだと考えられる。実は、伊八が大成するうえで、この「江戸で修行を積まなかった」ことがことの外、重要だったのではないだろうか。
もし、伊八が江戸で修行を積み、仕事をしていたら、どのような結果がもたらされたであろうか?嶋村流本家でみっちりと修行を積んだとすれば、若い頃から高い技術を体得できたであろう。しかし、それと同時に嶋村家の流儀、あるいは江戸彫工の約束事など、知らず知らずのうちに有形無形の拘束力や規制に縛られてしまった可能性も高いのではないか。
伊八の作には、房総南部をホームグラウンドにして、この地域の人々の求めに応じながら、自分自身の裁量で自由に鑿を振るったおおらかさが溢れている。また、年代とともに変化してゆく様式からは、しなやかな柔軟性が感じられる。
その風通しのよさと自由さは、当時の文化の中心である江戸から、物理的・感覚的にも、一定の距離を置いた、微妙な隔たりを持つ安房の国に身を置いていたからこそ、身についたものではあるまいか。
現在確認されている限り、伊八が師匠筋に当たる「嶋村」姓を名乗ったのは、23歳の時の一回きりである。その外は自らの姓に基づく「武士」「武志」を名乗っている。
江戸で名高い「嶋村」のブランド力に頼るのではなく、自らの名と実力で己の道を切り拓く覚悟を伊八は持っていた。更に、この地の人々はそうした潔さをよしとして、若い伊八に仕事を与えた。
そうした施主や地域の人々との関わりの中で伊八は経験と実績を積み重ねながら、彫物大工として成長してゆく。伊八が仕事をする中で最も重視した点は何か。それは、自分の作品を如何に、寺社の建築空間に緊密に結び付けるか、という課題である。 伊八の作には、見る人の視点からの距離や角度に対応した細心の工夫が施されている。言葉を換えれば、彼の作は、建築の空間に収められて、はじめて最大限の表現効果を発揮するのである。
彼の作は薄い材を用いていながら、実際以上のボリューム感・立体感を感じさせる。それは、伊八が、見る人の視点を前提とした遠近法的な表現を意識的に、そして巧みに使いこなしているからである。
更に言えば、伊八は、自分の作を的確に設置することによって、信仰の場であり、同時に地域の公共施設でもある寺社の建築に、その土地の人々が求めた最も相応しい形で《活きた》空間を作り上げたと言ってもよいであろう。
伊八は、この鴨川に生まれ、この地に住みながら、彫物大工を一生の生業として、数々の名作を遺した。これらの仕事は、彼が自作に記す「房州/安房國長狭郡=江戸期の鴨川」が生み出した、文化の中心である江戸に匹敵する、あるいは江戸をも凌駕する地方文化の一つの頂点と言っても過言ではあるまい。
彼は寺社の建築を飾るために、実に様々なものを彫っているが、現代人の目から見ると、特に波の表現が優れているとの高い評価を受けていることから、現在では「波の伊八」と呼ばれている。
伊八の名前は、初代から五代およそ200年にわたって、昭和29年まで受け継がれた。何故、これだけの優れた仕事を遺した工人が、この地に誕生したのであろうか?
初代伊八が生まれ育った時期は、この地域でも、寺社の建築を彫刻で飾ろうとという気運が高まった時代に当たる。そうした時代背景の中、伊八は長狭郡では最初の彫物大工(建築彫刻専門の職工)としての人生を歩むことになる。
伊八は上総植野村の嶋村貞亮(市東半平)の弟子として腕を磨いたようである。それ故、伊八は江戸ではなく、上総の植野周辺で修行を積んだと考えられる。実は、伊八が大成するうえで、この「江戸で修行を積まなかった」ことがことの外、重要だったのではないだろうか。
もし、伊八が江戸で修行を積み、仕事をしていたら、どのような結果がもたらされたであろうか?嶋村流本家でみっちりと修行を積んだとすれば、若い頃から高い技術を体得できたであろう。しかし、それと同時に嶋村家の流儀、あるいは江戸彫工の約束事など、知らず知らずのうちに有形無形の拘束力や規制に縛られてしまった可能性も高いのではないか。
伊八の作には、房総南部をホームグラウンドにして、この地域の人々の求めに応じながら、自分自身の裁量で自由に鑿を振るったおおらかさが溢れている。また、年代とともに変化してゆく様式からは、しなやかな柔軟性が感じられる。
その風通しのよさと自由さは、当時の文化の中心である江戸から、物理的・感覚的にも、一定の距離を置いた、微妙な隔たりを持つ安房の国に身を置いていたからこそ、身についたものではあるまいか。
現在確認されている限り、伊八が師匠筋に当たる「嶋村」姓を名乗ったのは、23歳の時の一回きりである。その外は自らの姓に基づく「武士」「武志」を名乗っている。
江戸で名高い「嶋村」のブランド力に頼るのではなく、自らの名と実力で己の道を切り拓く覚悟を伊八は持っていた。更に、この地の人々はそうした潔さをよしとして、若い伊八に仕事を与えた。
そうした施主や地域の人々との関わりの中で伊八は経験と実績を積み重ねながら、彫物大工として成長してゆく。伊八が仕事をする中で最も重視した点は何か。それは、自分の作品を如何に、寺社の建築空間に緊密に結び付けるか、という課題である。 伊八の作には、見る人の視点からの距離や角度に対応した細心の工夫が施されている。言葉を換えれば、彼の作は、建築の空間に収められて、はじめて最大限の表現効果を発揮するのである。
彼の作は薄い材を用いていながら、実際以上のボリューム感・立体感を感じさせる。それは、伊八が、見る人の視点を前提とした遠近法的な表現を意識的に、そして巧みに使いこなしているからである。
更に言えば、伊八は、自分の作を的確に設置することによって、信仰の場であり、同時に地域の公共施設でもある寺社の建築に、その土地の人々が求めた最も相応しい形で《活きた》空間を作り上げたと言ってもよいであろう。
伊八は、この鴨川に生まれ、この地に住みながら、彫物大工を一生の生業として、数々の名作を遺した。これらの仕事は、彼が自作に記す「房州/安房國長狭郡=江戸期の鴨川」が生み出した、文化の中心である江戸に匹敵する、あるいは江戸をも凌駕する地方文化の一つの頂点と言っても過言ではあるまい。

宝暦2年(1752) | 武志伊八郞信由(初代伊八) | 八代将軍徳川吉宗没 |
現・鴨川市打墨に生まれる | 吉田屋旅館創設(現・鴨川グランドホテル) | |
8(1758) | 伊八の父死去(永原寺・鴨川市貝渚)過去帳に○右衛、 | |
伊八父と記されている | ||
10(1760) | 葛飾北斎生まれる | |
明和元年(1764) | 粟斗薬王院上棟 | |
2(1765) | 山口志道(国学者)生まれる(鴨川市寺門) | |
3(1765) | 田沼意次側用人となる(田沼時代) | |
7(1770) | 忍足左内事件(富浦) | |
8(1771) | 妙法寺(東京・杉並区堀ノ内)向拝龍 | |
安永元年(1772) | 舎那院(鴨川市北小町)欄間二面恵比寿大黒図 | |
※作品は現在、鴨川市郷土資料館にて展示 | ||
3(1774) | 愛宕神社(南房総市千倉町)向拝竜 | 杉田玄白・前野良沢「解体新書」翻訳 |
4(1775) | 大聖院(南房総市千倉町)欄間三面波に龍七福神 | |
5(1776) | 観音寺(鋸南町保田)彫刻 | |
6(1777) | 西福寺(鴨川市竹平)欄間額三面、波に龍七福神 | |
8(1779) | 金乗院大日如来堂(鴨川市打墨)向拝の龍、欄間酒仙の図 | |
9(1780) | 薬王院(鴨川市粟斗)向拝の龍、欄間龍虎の図 | |
天明元年(1781) | ||
2(1782) | 天明の大飢餓 | |
3(1783) | 浅間山大噴火 | |
6(1786) | 二代信常生まれる(二代伊八) | |
7(1787) | 徳川家斎十一代将軍となる | |
8(1788) | 鏡忍寺(鴨川市広場)欄間三面、恵比寿の舞、七福神の図 | |
向拝波の龍、獅子頭象鼻、麒麟波蛙股 | ||
寛政元年(1789) | 硯山長福寺(大原町布施)欄間三面 | 寛政大早魁 |
2(1790) | 宝珠院(三芳村府中)観音堂拝虹梁の龍、本堂欄間龍と鶴 | |
3(1791) | 真高寺(市原市飯給)山門十九面、本堂内龍 | |
石堂寺(南房総市丸山町)向拝の龍、本堂内十六面の図 | ||
4(1792) | 光福寺(夷隅郡夷隅町)本堂虹梁の龍、内陣向拝欄間 | |
5(1793) | 嶺岡牧(鴨川市)で白牛酪製造 | |
8(1796) | 飯綱寺(夷隅郡岬町)向拝虹梁の龍、欄間三面牛若と天狗波と飛龍 | |
9(1797) | 初代伊八の母死去 | |
亨和元年(1801) | 伊能忠敬、全国測量開始 | |
3(1803) | 大山寺(鴨川市平塚)向拝の龍、獅子頭象鼻 | |
文化元年(1804) | ||
2(1805) | 覚翁寺(勝浦市出水)欄間二面龍 | 浮世絵師・喜多川歌麿死す |
3(1806) | 福聚院(南房総市富山町市部)相馬三面、波と龍 | 堀江顕濟(和算学者)鴨川市和泉に生まれる |
4(1807) | 葛飾北斎、木更津に来る | |
5(1808) | 智蔵寺(三芳村山名)本堂欄間中央、欄間左右龍波の図 | 間宮林蔵ら樺太体験 |
徳蔵院(南房総市千倉町)虹梁の龍、伊八の泉水十三仏池 | ||
瑞龍院(館山市畑)本堂欄間龍・波の図 | ||
6(1809) | 行元寺(夷隅郡荻原)欄間五面彫刻、松鶴三面、波に旭鶴二面、波に宝玉、二面 | |
7(1810) | 初代・伊八妻死去 | |
8(1811) | 賓聚院(大多喜町横山)本堂欄間三面、波と松と雲 | |
10(1813) | 三代信美生まれる | |
11(1814) | 飯尾寺(長柄町)欄間双龍争玉 | |
13(1816) | 満光院(鴨川市来秀)欄間(二代信常作) | |
文政元年(1818) | 福聚院(南房総市市部) | |
3(1820) | 本堂欄間三面 | |
白井忠蔵氏(長南町岩田)書院欄間龍・波 | ||
6(1823) | 称念寺(長南町千田)本堂龍五態 | |
初代伊八信由死去(七十三歳) | ||
7(1824) | 法名・徳叟良忍居士 | |