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鴨川について

鴨川の歴史

鴨川の古代

私たちの住む安房地方は、続日本紀に「元正天皇養老2年5月上総国を割きて安房国を置く」と記されています。長狭という地名は、古事記の神武天皇の条に「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)は長狭国造の祖」とあり、万葉集には「上総の郡名に長狭・朝夷あり」と記されています。また、安房斎部(いんべ)本系帳に「その麻によろしき所、これを長麻と云う」とあります。
長狭地方は沖積層によって形成されており、上古より地味が肥沃で、数千年前より原始生活を営む人びとが住んでいました。歴史時代になり、当地方は神八井耳命やその子孫などの地方豪族が統治していました。大化の改新(645)以降は、中央から派遣される国司(律令制の地方官)によって支配されました。

鴨川の中世

治承4年(1180)8月、石橋山の合戦で敗退した源頼朝は安房に逃れ、安房の武士団を集めて再起を図りました。当事、安房の在地領主としては、丸氏・安西氏・神余氏などが知られています。当地域の代表的な在地領主には、東条氏と長狭氏がいました。「吾妻鏡」治承4年9月3日の条によると、頼朝は、上総権介平広常(ごんのすけたいらのひろつね)のもとへ行こうとしたところ、長狭六郎常伴(つねとも)に襲撃されましたが、三浦義澄(よしずみ)の機転と奮闘により、長狭六郎常伴は討ち取られ危機を脱しました。当市域には「一戦場」という地名があり、この出来事の場所であるとする伝承があります。東条七郎秋則(あきのり)は、頼朝に従って協力したため、のちに長狭郡一円の支配をみとめられました。

また、鎌倉幕府執権北条氏の家臣である工藤氏の一族とされる工藤吉隆が、天津を領有していたといわれ、小松原で東条景信に襲われた日蓮上人を救い、討ち死にしました。
中世後期になると、安房に基盤をもった里見氏が、在地武士の内紛を巧みに利用して安房を統一しました。長狭郡に勢力を広げていた東条氏は、文安2年(1445)に安西氏とともに丸氏を滅ぼしましたが、その後、里見氏に攻撃され、市内田原の太田学にあった金山城に追い詰められ滅亡しました。以後、里見氏が旧勢力に代わって、当地を支配しました。市域の村々の形成があらましできあがったのは、このころといわれています。

鴨川の近世

江戸時代に入り、慶長19年(1614)に歴代10 代、170年間にわたり安房に君臨した里見氏が改易され、以降は代官領・大名領・旗本知行所が混在しました。元和6年(1620)に西郷正員(まさかず)が、下総国生実(現千葉市)から安房の朝夷・長狭の2 郡内に領地を移され、東条東村宝性寺に陣屋を構え、東条藩と称しました。西郷氏は、元禄5年(1692)に下野国(栃木県)上田に転封となったため東条藩は廃藩となり、以後、鴨川地域には藩は置かれませんでした。東条藩が廃藩となった後の内浦・天津・浜荻の三か村は、勝浦藩領、岩槻藩領と代わり、小湊村は誕生寺領として明治維新をむかえました。四方木村は、天正18年(1590)に久留里藩領となり、その後、前橋藩領、川越藩領と代わりました。寛永~承応年間(1624~1654)ころには、関西漁民が天津浦に出漁し始めたといわれ、鰯網操漁や八手網などさまざまな漁法が導入され、多数の紀州漁民が逗留し定住するようになり、「天津千軒」とうたわれたように繁栄しました。

また、享保年間(1716~36)には、里見氏以来の嶺岡牧(みねおかまき)が再興され、幕府の直轄地として経営されました。同牧には白牛も放牧され、酪(らく)(バター)の製造も行われました。このことが、わが国酪農の発祥といわれ、長狭地区を中心に今でも伝統的に酪農が盛んです。

歌川広重 六十余州名所図会 安房小湊内浦 船橋市西図書館所蔵

歌川広重
六十余州名所図会 安房小湊内浦
船橋市西図書館所蔵

鴨川の近代

明治に入り、房州でも大名の異動がありました。明治元年(1868)9月に西尾忠篤が、遠江横須賀から3万5,000石で当地に入封し、花房藩と公称しました。仮藩庁は横渚村に設けられ、藩主の宿所は広場の日蓮宗鏡忍寺に置かれました。版籍奉還・廃藩置県を経て、明治4年(1871)11月の県の統廃合によって木更津県に組み入れられ、明治6年千葉県の成立によって、その管轄下に置かれました。
明治時代には多くの行政改革が行われました。明治22年(1889)の町村制の施行にともない、長狭郡62 町村の合併がすすめられ、新たに太海村・曽呂村・大山村・吉尾村・由基村(大正4年10月主基村と改称)・田原村・鴨川町・西条村・東条村・天津町・湊村 (昭和3年11月町制施行、小湊町と改称)の11 町村となり、朝夷郡内の6 村が合併して江見村(昭和3年11月町制施行)が成立しました。
なお安房国は、明治30年4月1日に平・安房・朝夷・長狭の4 郡を廃し、1 郡となりました。
昭和4年には房総線が開通し交通の便がよくなり、この地帯は農業・水産業の盛んなところとしてにぎわい、大いに発展をいたしました。

鴨川の現代

戦後、昭和28年9月1日に施行された町村合併促進法によって、昭和29年7月1日に鴨川・東条・西条・田原が合併して鴨川町を、昭和30年2月11日には天津・小湊が合併して天津小湊町を、また同年3月31日には大山・吉尾・主基が合併して長狭町を、太海・曽呂・江見が合併して江見町をそれぞれ設置しました。
鴨川町は農業と漁師町としてにぎわう一方、長狭全郷の経済の中心地として、物資の集散地・消費地として商業活動も活発化し、また自然美に富んだ房総の観光拠点基地として発展してきました。長狭町は嶺岡・清澄両山系の間に開けた細長い町で古くから酪農・果樹園芸・米作と農業中心に栄え、また江見町は太平洋岸に面した温暖な気候に恵まれた町で花き栽培が盛んであり、花の江見として名高いところです。この鴨川町・長狭町・江見町の3 町は、昭和45年3月12日施行の三万市制特例法に基づき合併市制を施行し、昭和46年3月31日に鴨川市として発足しました。そして3 次の基本構想並びに7 次にわたる総合計画のもと、各種産業間の連携を図りながらハードおよびソフトの整備が進められてきました。
天津小湊町は、豊富な磯根資源や釣り漁業を中心とした漁業地として、また、清澄寺・誕生寺や鯛の浦などの日蓮上人生誕の霊地や門前町としての特性を有し、風光明媚な観光の名所として広く知られています。
21 世紀に入り、地方分権時代の到来を向かえ、様々な課題に対応し、魅力的な地域づくりを進め、南房総の拠点都市としてより発展するため、鴨川市と天津小湊町が合併し、平成17年2月11日に新鴨川市が誕生しました。